miyabia’s blog

50代のシングルライフ

私の理想の男性像

 

私は50歳を過ぎて、やっと亡くなった父の愛情を感じることができた。

 

父は仕事人間で、一緒に遊んでもらった記憶もないし、特に旅行に行った記憶もないし、可愛がってもらった記憶もない。

 

父は複雑な生い立ちの人だったので、その不憫な父を可哀想と思い、ただ、私は父の味方であろうと思ってた節がある。

 

父がどんな寂しさや悲しさを背負ってたのかは私には分からない。だけど、寂しい人なんだと理解していた。

 

よく女の子の理想の男性は父親のような人だと聞く。だけど私は父親のような人が理想の男性とは思ったことがない。

 

母に『パパみたいな人と結婚しちゃいけないよ』と何度も聞かされてたのもあるだろう。

 

だけど、それがあってもなくても、父のような男性は理想とはしなかったと思う。

 

仕事ばかりで家に居る時は、ほとんど寝てたし、子育てには無関心だったし、ご機嫌になるのはお酒を飲んだ時だけで、後は無口な人だった。

 

父からは1ミリの愛情を感じたこともなかったけど、たくさん働いて、お金を稼いで、私を短大まで出してくれたこと自体が、愛だったんだろうとやっと思えた。

 

私という命に責任を持ってくれていたから、仕事に一生懸命だったんだろうな、と。

 

それは、責任という愛。

 

この世の男性は、責任を取ることが愛だと思ってるんだろう。

 

ただ、子どもの頃の私の気持ちを振り返ると、責任という愛なんて分かるわけなくて、ただ欲しかったのは、『何よりも私を優先して欲しかった』ということ。

 

私はひとりっ子なので、何で可愛がって貰えないのか私には謎だったからだ。

 

父の、父なりの愛の形をやっと理解できたような気がする。それにはやはり感謝したいと思う。

 

だけど、私が父に望んでいたのはそういうことじゃなかった。

ただ、可愛がって欲しかった。

 

テレビドラマで、パパが帰宅すると、娘が『パパおかえり』と言ってパパに抱きつき、パパはその娘を抱き上げるようなシーンがある。

 

私にはそんな経験がなく、そんなものは理想的な架空の作られたものだとずっと思ってきた。

だけど、実際には本当にテレビドラマのような関係の父と娘の関係の家族はあるんだろう。

 

仕事を早めに切り上げてくれるパパ。

娘が起きてる間に帰りたいと思うパパ。

帰ったら娘を抱きしめたいと思うパパ。

時々お土産を買って行ってあげようと思うパパ。

休みの日は一緒に遊んでくれるパパ。

娘が喜ぶことを考えてくれるパパ。

 

私はこういうパパが欲しかった。

 

 

 

父が与えてくれた、責任という愛の形は理解したし感謝したいと思う。

 

だけど、私が本当に欲しかったものはそれではない。

 

私はこれからは、理想のパパのような男性を、妥協なく探したいと思う。

 

私はこれまで、自分の理想の男性像が分からなかった。

 

理想の男性の雛型となる父親が、娘からは悲しい存在だと、娘は理想の男性を思い描くことが出来ない。

 

自分が小さい頃に求めてたパパこそ、私の理想の男性なんだと思う。

 

50を過ぎて、やっと理想の男性像が見えてきた。

 

これは私の大発見。

 

私はこれから理想を追求したいと思う。

 

 

素直って素晴らしい

 

ある70代のおじいさんの実話。

 

17歳の頃、初恋をした女の子の名前はおはなちゃん。

 

好きという気持ちを伝えられなかった。

 

でも2ヶ月後、おはなちゃんは病気で亡くなった。

 

そのおじいさんは、おはなちゃん以上に好きになれる人が現れなくて、70歳を過ぎても独身だそうです。

 

『おはなちゃん、ずーっと好きです』

『愛してるよー』

 

と、テレビで言ってました。

 

 

 

 

ある70代くらいのご夫婦。

 

ばーさんがある日突然入院して、数ヶ月後退院してきた時、今まで言ったことがなかったけど、ばーさんの大切さが分かり、

 

『ばーさん、好きだよ。これからも俺の後ろからついてこい!』

 

とテレビで告白。

 

ばーさんは、

『そんなこと初めて言われた』

と、涙を流し、じーさんも涙を流し、2人で同じハンカチで涙を拭いてました。

 

言えないまま、ずっと1人の女性を思い独り身のおじいさん。

今まで言ったことなかったけど、素直に気持ちを伝えたおじいさん。

 

ステキですね。

 

 

 

勝つことが強いのではなく、負けを認められることが強さでもあり、優しさでもある

 

とっても大切なことに気づいた。

 

私は高校受験の失敗を経験していて、それが私の人生で一番大きな転機となることだった。

その失敗は、それまでの自分の人生がリセットされるような出来事だった。

悲しくて、苦しくて、これからどうやって生きて行こうかと、もがき続けた3年間だった。

 

でも、それがあったから、今の私が居ることは間違いないことは分かってる。でも、何故そんな経験をさせられたのか、やっと納得がいく答えが見つかった。

 

 

出来のいい人は、上へ上へと挑戦する。

人と比べ、負けないように戦う。

 

 

私はあのまま受験に失敗してなかったら、人と比べ、負けないように戦う人生に向かってた可能性がある。

 

 

だけど、負けることはいけないことなのか?

 

 

勝ちたいという気持ちは、負けを認められないということ。

 

勝つために、もっともっとと努力を強いられること。

 

勝つということは、誰かを負かすこと。

 

負けないためには現状を良しとできない。

いつも不足感。

それは自分を認められないこと。

 

負けないためには、努力しつづけないといけない。

 

勝つって、しんどいことばかりだと思う。

 

 

私は高校受験の失敗で、負けを認めた。

それには相当な心の整理が必要だったけど、私がそれにより手にしたものがわかった。

 

 

負けて、上に上がることを諦めたことで選択肢が減ったけど、その中で自分ができることを見つけられるようになったんだと、気づいた。

 

 

周りの同級生は、ある意味、上に上がることを諦めた子たちばかりだった。

でもそれは、自分の実力を認めてる子たちだったんだと気づいた。

 

勉強が出来なくていい。

上を目指せなくていい。

社会の弱者でもいい。

 

そんな自分に、何が楽しいんだろう?と考えられる子たちの中に、私は入れてもらったんだと気づいた。

 

勝つことが強いんじゃない。

 

自分のダメさ、弱さを認められることが強さだ。

 

そこから自分に合った楽しいことを見つけられる人こそ、賢い。

 

もっともっとと上を目指し、自分が勝つことで誰かを負かし、負けを認められず、負けたら崩れ去るようなメンタルは、本当に強者なのか?

 

 

負けを認められない人は、弱者も認められない。だから偉そうにして弱者にマウントを取ったりするんだろう。

それが強さなのか?

 

 

弱者は勝てないことが分かってるから、戦おうとしない。だから戦いのない世界に居られる。

 

負けを認め、戦おうとしないことのほうがよっぽど賢い。

 

戦わずとも、自分なりの幸せを見つけていける素晴らしい存在なのではないか?

 

自分のダメさ、弱さを受け入れられた人は、当然自分のダメさ、弱さを感じてる人の気持ちが分かる。それは、優しさ。

 

賢さを使って、勝って誰かを負かし、上に登ることが強さなんだろうか?

 

 

負けを認め、同じような誰かに優しくできる人のほうが、よっぽど強く賢いのではないか?

 

 

私は、高校受験の失敗で、戦うこと、勝つことで誰かを負かすことから、弱者目線の生き方を学んだんだと思う。

 

それこそが、人間にとって大切なことだと思う。

 

私は、高校受験の失敗に感謝したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある程度年齢を重ねた人のテーマ

 

若い頃は経験が少ないから、得られることも足りないから、もっともっとと思うし思ってもいい。

 

だけど、ある程度年齢を重ねれば、経験豊富になるし、失ったことも多くなるだろうけど、得られたことも多いはず。

 

若い時はもっと求めていいし、求めるべきだと思う。経験を積むために。

だけと、ある程度年齢を重ねたら、自分はそれまでの人生で、どんな経験をして、どんなものを得てきたのかを振り返ってみる。

 

そうすると、いいことも悪いことも、たくさんの学びをしてきてるはず。

 

もっと、もっとと足りないものを求めるのは若い人の特権。

 

ある程度年齢を重ねたら、これまで経験して得たものを数えて受け入れていく時期。

 

足りない、もっともっとと足りないもの探しではなく、今ある自分の経験を人に与える時期に来てると思う。

 

ある程度年齢を重ねたら、お金や地位を求める段階は終わり。

 

人に何を与えられるか?という発想になっていかないといけないと思う。

 

人はあの世に旅立つとき、お金も地位も高級品も持っていけない。

 

ただ持っていけるのは、思い出だと思う。

そして、この世に置いていく人に対しても、最終的に一番印象的に残せるのは思い出だと思う。

 

それは、人と人とのつながり。

そこにどれだけステキな思い出を残せるか。

 

だと思う。

 

いくつになっても引退しない政治家たち。

早く引退して、若い世代に任せ、新しい時代を作ってもらえばいいのに、いつまでも権力にしがみついてる。

 

 

死ぬまで現役という言葉があるけど、それが美化されてきたけど、老害という言葉のほうがよっぽど相応しいと思ってしまう。

 

 

いつまでも権力にしがみつかないで、あっさりと身を引き、これからはゆっくりしたいと思う人のほうが、よっぽど潔くてカッコいいのではないか?

 

 

権力や成果から、どれだけ偉い人かと思われるより、人と人との繋がりで、どれだけ感謝し合える関係を築けたか?ということが、ある程度年齢を重ねた人のテーマではないでしょうか?

 

 

 

 

 

期待されることが苦しい人の発想

 

期待されて、それに応えようとするって、失敗は許されないようなプレッシャーを持ってしまうし、失敗した時、その期待がなくなってしまうような恐れもあるかもしれない。

もしかしたら、期待されすぎて押しつぶされそう、もしくは押しつぶされた人もいるかもしれない。

そして、期待されない人を羨ましいと思ったかもしれない。

 

だけど、期待されない人からすると、期待される人になるための努力からしないといけなくなる。期待されない人からしたら、無条件に期待される人を羨ましいと思うかもしれない。

 

でも、期待される人は、期待されることで伸びる人もいるだろうし、期待されない人は、期待されないことで伸び伸びと人生を送る人もいるかもしれない。

 

ということは、どっちでもいいのではないか?

 

どっちが幸せだとか、それはその人の捉え方次第。

 

期待されるから不幸とか、〇〇だから不幸という発想は、その人の価値観によるもので、他の人からしたら幸せなことの可能性もある。

 

〇〇だから不幸という発想の持ち主は、多分思い込みの激しい人。私はそう思う。

 

信頼は築くものじゃない

 

「信頼は築くもの」とよく聞く言葉。だけど、そうではないと気づいた。

 

私は今の職場で働き出してすぐに、先輩事務さんから散々なことを言われた。こんなこと言える人がこの世に存在するんだと思うほどのことを、約3日に渡り言われた。

 

コロナの最中、やっと採用された職場。簡単に辞めるわけには行かなかった。

 

彼女の不満は彼女の口から公になり、私は注意を受けた。私にも言いたいことは山ほどあったのに、これ以上、事を大きくしないためにも飲み込んだ。

 

それから1年半ほど経った。その女性が私を信頼してると聞かされた。意外だった。

 

「私が頼まれた仕事をしてない訳がない」と、私の居ないところで言ってくれたそうだ。

 

そういう私も最近彼女に居心地の良さを感じていた。 

 

 

「信頼」とは築くものじゃない。

 

関わるごとに、どんどん慣れてきて、安心感や愛着となり、さらに人間性に触れることで、勝手に生まれるものだと思う。

 

 

信頼とは、信頼されるために、信頼される結果を相手に見せることじゃない。

コミュニケーションにより、自然と生まれるもの。それが、本物の信頼というんだと思う。